共生社会のためのアンケート結果
オフィス熱気球 伊藤英子
「当事者の声を聴いて下さい!」そして一緒に考えていきませんか?
アンケートの結果、当事者たちが「虐待防止法」や「差別解消法」の存在をあまり知らず、
また法律ができているにも関わらず、差別や虐待の状況が変化したと感じていません。
一人ひとりの声を見ると、多くの当事者がとてもつらい思い、腹立たしい思い、
悔しい思いをしていることが読み取れます。
そして、家族や支援者の多くが、それを見聞きしていることが分かります。
なのになぜ、それは改善されていないのでしょう。
きちんと声をあげ、声を聴き、「お互いに尊重しあう共生社会」「私たちのこと私たち抜きに決めない社会」のためには、
当事者の声はもっと聴かれ、尊重されるべきではないでしょうか。
無理を通せと言っているわけではありません。
差別や虐待の体験の欄をご覧ください。
人として尊重しあう上で、あってはならないことがたくさん起きていると思いませんか。
私たちはこの状況を変えていきたいと思っています。
今回のアンケートで数人の方から「知的障害者」などに配慮されてない、というご指摘をいただきました。
私たち自身もそれを分かった上で、まずは聞かれてこなかった声をとにかく集めたいと思い、
今回のアンケートに踏み切りました。
結果として、アンケートにご回答くださったほとんどの方が、
ご自分で文章を読み、理解し、回答できる方だと思われます。
それでも、この結果です。
ご自分で情報を得、意思表明することが難しい方の声はほとんど含まれていません。
そこにはもっと理不尽な思いや、悲しい思いがあるはずです。
その声も、もっときちんと聴かれるべきです。
「意思を表明できているか」「くみ取ってくれているか」の問いに、
「くみ取れている」と答えた支援者の割合が少なかったのは、日々自分に問い直しながら
支援にあたってくれていることの表れだと思います。
それでもなお、こんな悲しい声が上がっているのです。
今後も、いろいろな声を聴き、伝えていきたいと思っています。
障害があってもなくてもきちんとお互いの声を聴き、対話していくことができる社会。
障害があってもなくても互いに尊重され共生する社会に近づいていくことを願っています。
また、自分でしっかり伝えることのできない当事者の声が少しでも聴き取られるように、
皆さまのお力を借りながら考えていきたいと思っています。
このHPを見てのご意見、ご感想、お問い合わせなど、ぜひお寄せください。
ご協力よろしくお願いします。
詳しい分析と考察(伊藤英子版)はこちらからご覧ください
りぐらっぷ高知 安藤 里恵子
多く方に声をよせていただき、本当に有難うございます。それらの記載を読んでいると、正直なんとも言えない気持ちになります。単に憤りというのでもなく、申し訳ないような、切ないような、言葉にならない気持ちです。今回、アンケートに答えてくださった方にも、同じような思いを持たれた方がいるのではないでしょうか。
差別と虐待、どちらも大きなテーマで、関連もありますが、ここでは「差別」について思ったことを書きたいと思います。個人的な感想です。
そもそも「障害者」への差別なのか「障害」への差別なのか、考えていました。「障害者」への思い込みによる差別は「障害者差別」だと思います。例えば、アパートを借りられなかったという話は、不動産会社の先入観、思い込みのせいではないかと思います。目の前の個人を見るのではなく、「障害者」という属性でしか見てもらえなかったせいでしょうか。「偏見を無くし、正しい理解をしてほしい」これは、長年繰り返されてきた言葉ですし、理解の進んだ部分もあるとはいえ、今後も取り組むべき課題だと思います。
一方、仕事が遅かったり、レジでの支払いが遅いときに嫌な思いをしたのは、「障害」そのものへの差別だと思います。その場合、それは障害者であってもなくても起こりうることだと思います。障害者に冷たい職場が、一般社員に優しいとは思われません。支払いに時間がかかる障害者を嫌がる店員は、おそらく高齢者がゆっくり財布を開くのにもイライラしているでしょう。障害があるゆえに、そういった嫌なめに会いやすいのが障害者だと思います。
「障害者」へのあからさまな差別は、少なくなってきていると思います。学業、就業の機会は増えていますし、社会参加の場も以前と比べれば増えています。しかし、一方で「障害」そのものへの差別は、むしろ進んでいる面もあるのかもしれません。社会の様々な場面でスピードと効率が求められ、時間がかかることや、やり方が異なることは嫌がられているようです。しかし、ピリピリと物事をこなし、さらにスピードを求める社会が本当に居心地が良いのか、どこへ行きつくのか、私たち(障害があってもなくても)は考える時期にきているかも知れません。これらの差別を生み出すのは政策の問題もあるのでしょうが、大きくは文化の問題だと思います。
今回のアンケート調査の目的である、共生社会というのは、おそらく、早い人も遅い人も、強い人も弱い人も誰もが共に生きていく社会だと思います。一部の人の居心地の良さ(と、思っているもの)のために、他の人が我慢している、しかも、我慢している事に対して感謝ではなく、強要や侮蔑を表すのが差別の一部ではないでしょうか。このような差別は、障害者だけでなく、すべての人に関わってくると思います。
差別」について語る難しさは「差別」が個々の中に、そして社会の中に重層的に多面的に存在するからだと思います。「差別はいけない」という当たり前のことの前で思考を止めるのではなく、「差別」が私たちの社会にあることを前提にして、対話を重ねることで、それぞれの局面で分かり合うしかないように思います。「障害」だけでなく「性別」「年齢」「民族」様々な場面で差別はあります。お互いの声に耳を傾け、対話を試みる、それらが積み重なって新しい文化が生まれると思います。簡単にこちら側と向こう側に分けるのではなく、踏みとどまって考える。自分に引きうけて普遍的な課題にする。正直、面倒くさい事だと思います。しかし、面倒くさい事と面白いことは近いのかもしれない、と最近は感じています。
障害者差別という問題が、「障害者」という枠に留めおかれるのではなく、私たちの生活の様々な場面と地続きであることに気づけば、彼らの声は私たちの声であるといって良いと思います。「私たち」と語られる事が、共生社会の一歩ではないでしょうか。私は、違いがあっても、お互いが尊重され、丁寧に扱われるような社会であってほしいと思います。
最後に、この感想をまとめるにあたって、久しぶりに読み返した本を紹介します。これらの本を読んでいた時期は、様々な障害者団体と一緒に、障害を持つ人の所得補償問題に取り組みながら、私なりに「障害」とは何かを考えていました。
『「弱者」とはだれか』小浜逸郎(PHP新書)
『ハンディキャップ論』佐藤幹夫(洋泉社)